ラグステーション瑞穂店 当店人気NO.1スニーカーブランドの「NIKE」の 歴史について


みなさん こんにちは

ラグステーション 担当工藤です

只今スニーカー買取強化中!!!

そのなかでもやはり「NIKE」が当店では断トツ人気でございます

今日はそんな「NIKE」の歴史を勝手に紐解いてご紹介させていただきます!

NIKEといえば、言わずと知れた世界的なスポーツブランドですよね。ファッションアイテムとしてはもちろん、サッカーやバスケットボール等の様々なスポーツをサポートする確かな技術力を持ち合わせた、才色兼備なブランドです。

しかし、これほど有名な世界的大企業であるにも関わらず、実はスポーツシューズメーカーとしては後発の企業なのでした。それでは何がここまでの人気を持たせたのか、NIKEの歴史も合わせて見ていきましょう!

NIKEはアメリカ・オレゴン州に本社があり、フィル・ナイトとビル・バウワーマンの二人によって、1964年に創立されました。現在、世界のスポーツメーカーの中でも売上トップを誇っています。
前述しましたが、業界としては後発組であるメーカーが何故トップの座をとれたのでしょうか?ここまで成長できたのは何故なのか?その基礎は何と日本にあったのです!

1960年代、スポーツシューズといえばadidasと言っても過言でないほど、adidasが圧倒的なシェアを誇っていました。そんな中創業者の一人であるフィル・ナイトは、品質・コストともに申し分ないシュ-ズを輸入販売するビジネスを起案します。adidasの品質に並び、それでいてリーズナブルである商品に可能性を見出したのです。

そんな彼が輸入元として選んだのが日本でした。卒業後に来日し神戸に出向いた際、日本のメーカーであるオニツカタイガー(現アシックス)に出会いました。低価格でありながら高品質でもあり、まさしく彼が必要とする要素が詰まった理想的なメーカーだったのです。
彼はこれを気に入り、オニツカタイガーのアメリカでの独占販売権を獲得したのです。1962年の事です。

商売の下準備を十分にしたその後、フィルは陸上コーチであり恩師でもあるビルを誘い、1964年にブルーリボンスポーツ社を設立し、アメリカでのオニツカタイガーシューズを販売しはじめました。これは現在のNIKEの前身ですね。
ここで注目すべきは独占販売権を獲得した日付です。なんと会社を設立する前に権利を得ているのです!何という執念、恐るべし・・・

彼らの思惑はビタリとはまり、売上は順調に伸びて行きました。経営が軌道にのってきた頃、よりアメリカの市場にあった商品を開発する為、オニツカタイガーへの提案も行っていきました。
ビルはシューズを自作していたほど研究熱心であり、彼の中には既に数多くのアイデアがあったのでしょう。
そこで提案したのが、ソールを厚くしてクッション性を上げることでした。共同開発を始め、1967年にはついに記念すべき1足目が誕生しました。当時としては考えられないほどソールを厚くしたことが功を奏し、見事ヒット商品を生み出す事に成功しました。

因みに、当初このシューズのネーミングは、メキシコで行われる予定であったオリンピックから着想し、「アステカ」という名前になる予定でした。しかし、あのadidasが先に「アステカ」という名前のシューズを作っていた為、この名前を付けることは叶いませんでした。
そこで最終的についた名前は「コルテッツ」です。

これはアステカ帝国を征服したエルナン・コルテスに由来しています。巨大な敵であるadidasを打倒するという逆転の発想が、皮肉あふれて面白くも世界をとるという強い意志が見えていますね。

この成功をもとに自信をつけた彼らは、度々起こる商品納入のトラブルや将来の方向性の違いにより、オニツカタイガーの販売代理店という立場を抜け出し、自社での製造・販売を決め、1971年には提携を終了しました。
この時誕生したのが、他でもなくNIKEだったのです。由来はギリシャ神話の勝利の女神であるニケから来ています。

この後NIKEは「コルテッツ」での成功でもわかるように、多種多様なアイデアが皆さんよく知る「Air」を生み出し、反骨精神あふれるマーケティングと貪欲な開発により世界に名を轟かせていったのですが、それはまた別のお話・・・

このようにNIKEが成功した陰には日本のメーカーも関わっていたのです。もし現在もアシックスと良好な関係を続けていたらどうなっていたのか、なんて考えても野暮なのでしょうか・・・

当店ではNIKEヴィンテージから最新モデルまで幅広くお買取りをしております。加水分解などの恐れがあるデッドストック品でも査定させていただきます。


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